Monさんちーむ の ぶろぐ。

み、見ちゃダメ!(建前)

今のひとのかたち

 思うことあって、筆を取る。

 

 ヒトとは一体どのような集団の形態を持つのがふさわしいのだろうと時折考える。

私は、しばしば頭が混乱したり難しい話に直面すると根本論(そもそも論)で思考するので、突然のことになるが少々お付き合い頂きたい。

 

 少なくとも現在、ヒトというのは地球上で特別な生き物であると言える。火を扱い、言語を交わし、道具を産み出し、学問を修め、自己を持って己の人生を描く。

 

 そんなヒトという生き物は今どのように生きるのが正しいのか。もちろんそれに正解はない。厳密には「ただ生きる。」というのが正解になるが、それを正解としてくれないのが今のヒトなのである。

 

 ヒトは富を築き、格差・階級を産み出し、国を造り、法を敷き、ヒトには生まれながらにして、「生存」という絶対的目的の他に様々な義務・責務を負う羽目になったのだ。

 

 しかし、私はそこに関して大きな悲しみを抱いてはいない。なぜならばこの世界は現在、人間の覇権であり、その「生存」という目的については、比較的保障されているからだ。その保障のための義務・責務であるのならば致し方ない。

 

 そして、日本社会での義務というのは「納税」「勤労」「教育」が挙げられるが、私は「勤労」こそがひとの生涯において最も時間が多く費やされる義務であると考える。そのため、ひとは仕事について非常に敏感になる。良い仕事に就くため、勉強し、スキルを習得し、学歴を入手したりなどする。

 

 しかし、仕事というのは、会社や役所でのみ行われるものではない。家庭というのも立派な果たすべき仕事であると考える。ここ最近まで長らく家族という形態は大家族による所帯で、男は働きに出かけ、女と現役を引退した老人が家を守り、家事を行い、育児をした。これは、客観的に非常に完成されたモデルであるとは思う。しかし、このモデルには個々人の生涯設計の自由は存在しなかった。厳密に言えば、全くない訳ではないが、今よりも生存が過酷であり、余裕が無かった時代にはこれが最も生存に適していたのではないかと考えるのである。

 

 しかし、今はもう違う。ある程度の安全があり、性別によらず、家族のそれぞれの構成要員が自身の望む職に就き、勤労の義務を果たし、家庭を営むべき時代となった。

 

 またしかし、性別による違いというとは、身体的特徴の違い、ひいては男女でできることとできないことが存在することを意味する。最も大きな違いは子供を出産できるかできないかという違いである。

 

 出産とは女性にしかできないことである。ただその尊い行為は現代社会において、様々な問題を女性にもたらしてしまう。ヒトは文明を興し、社会を発展させる程に、種として子孫を残すことを困難にしている気がするのだが気のせいだろうか。現代になっても、妊娠・出産とは命がけの一大事であり、当然日常の生活はどんどんと変化し、出産とその後の生活のための準備が必要になる。女性が自らの人生設計を持っていても、それが出産によって、路線変更を強いられてしまうことは由々しきことであると思う。よって、昨今ようやく現実的になってきた育休やその他の福利厚生制度はもっと浸透すべきであると考える。そして女性はそれらの権利の行使を躊躇わず、職場や周囲がそれを当然のように対応することができる環境になることを強く望む。

 

 男女の区別は明確に存しており、それが無くなることはない。本来はそれだけだったのに、この社会においては、女性の方が明らかに選択肢が少ない。私は男女両方に同じ選択肢とそれを選ぶ権利が自然に開かれているべきだと感じる。なので、無理やり雇用の男女比率を引き上げるといったようなやり方には違和感を覚えるし、専業主婦を選択をした女性を旧時代呼ばわりすることにも嫌悪する。全ての選択肢を可能にし、自然に存していることが重要なのであって、従来あったものを選択する権利も勿論存在するからである。

 

 そして、夫婦はお互いの望みを叶えるために、お互いの選択肢を尊重し、達成のための行動をすべきである。夫のことを世界で一番理解し尊重できるのが妻であり、妻のことを世界で一番理解し尊重できるのが夫であるのだから。

 

 わざわざヒトなんていう感情と自我を持った生き物に生まれてきてしまったんだから、どうせならきっと幸せな最期を。