Monさんちーむ の ぶろぐ。

み、見ちゃダメ!(建前)

ラームカムヘーン大王碑文 ~幻の理想王朝スコータイ~  前編

みなさんご無沙汰しております(n回目)。

Monさんちーむです。

 

今回はあるレポートでまとめた内容を改変し、紹介したいと思います。

 

約20年前、日本の考古学学会を揺るがす大事件がありました。2000年に発覚した藤村新一による旧石器捏造事件です。彼が起こした「大発見」の数々によって、広範にそして根深く日本社会に影響を残したとされています。

拙は日本史については高校の範囲までしか履修しておらず、事件当時はまだ3歳であったが、後に大きな事件があったということで、元々知っていた事件です。しかし、こういった歴史学における捏造事件というのは何も日本に限った話ではありません。

 

今回は、タイ王国において国内最大の考古学の謎である、「ラームカムヘーン大王碑文」に関する論争について前提知識もさらいながら紹介したいと思います。

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ラームカムヘーン大王碑文のレプリカ(Wikiより)

 

 

 

タイにおける、歴史学・考古学の歩みというのは、19世紀の絶対王政期から国家の中央集権化の必要性や国家のアイデンティティの創出のために国家・王室によって、トップダウンで急速に進められました。

 

当時、西洋列強がアジアへと次々進出し、不平等条約を締結させるような事態がアジア各国で行われていました。日本では旧体制である幕府が倒れ、明治新政府による近代化政策が行われていくこととなります。タイでは王朝が倒れることなく、王室が主導して様々な改革がなされました。

ラーマ5世(在位:1868-1910)によるチャックリー改革(チャックリーとは王朝名のこと)が近代化政策として有名ですが、実際はその先代にあたる、ラーマ5世の父のラーマ4世(在位:1851-1868)の治世から近代化は始まっていました。そしてこのラーマ4世こそが今回のテーマの「ラームカムヘーン大王碑文」の発見者本人なのです。

 

 

ラーマ4世は即位以前、27年という長い間にわたり僧籍にあった王族です。彼は兄弟のラーマ3世と王位継承問題があり、弟のモンクット王子(即位前のラーマ4世の名前)の方が王位継承順位において優位な立場にいましたが、学業に専念するために出家し、王位を弟に譲りました。

しかし、実際は王位継承争いで身の危険を感じたモンクット王子が王位に関心がないことを示すために出家したのではないかとも考えられます(大海人皇子みたいですね)。

 

いずれにせよ、この僧籍の間にモンクット王子はタイにおける伝統的な学問である、サンスクリット語パーリ語の学習のみならず、西洋の科学、天文学など、当時のタイではまだ目新しかった先進的な学問にも着手しました。結果として、この時の経験が後の近代化政策に影響を与えたことは確実でしょう。

 

そしてモンクット王子が僧籍にある時、「ラームカムヘーン大王碑文」。

 

偶然、それを発見したのです。

 

 

では次に「ラームカムヘーン大王碑文」が実際タイの歴史学にどのような意義を与えてきたのかについて述べたいと思います。

 

そもそもラームカムヘーン大王というのはタイ民族が最初に建国したとされるスコータイ朝(1238-1583)における第3代国王です。

このラームカムヘーン王はタイ文字を自ら発明してそれを広め、統治に関しても国民の声をよく聞き、国民が子、国王が父であるかのように温情をもってして統治した王として、現在、タイ国民から最も尊敬される国王の一人である。そしてラームカムヘーン王は自らの国について石碑を掘らせ、それが一連の碑文であり、最も有名なものがラームカムヘーン大王碑文(第一碑文)である”””ということになっています”””。

 

スコータイ朝の来歴や、ラームカムヘーン王の事跡等もこの碑文に記されている。タイ王国は自国の歴史観として、このスコータイ朝を現在のタイ王国の直接のルーツとみなし、その後スコータイ朝に取って代わって台頭したアユッタヤー朝(1351-1767)、アユッタヤー朝がビルマに滅ぼされた後にタイを再編したトンブリー朝(1767-1782)、そして現在にまで存続するチャックリー朝(1782-)(ラタナコーシン朝バンコク朝とも)を一本の系譜で結んだ、『単線史観』なるものを採用しています(スコータイ朝アユタヤ朝の成立時期は重複しており、単線で結ぶのは少々無理がある。加えて、この王朝以外にも様々な王朝・領域国家が存在していることを無視している)。

 

この歴史観を構築したのが「タイ歴史学の父」とも呼ばれる、ダムロンラーチャーヌパープ親王(以降は通称のダムロン親王と呼ぶ)です。ラーマ5世の異母弟であるダムロン親王ラーマ5世の治世の下、行政改革などで辣腕を振るい、ラーマ6世期(1910-1925)には国王との不仲で、第一線を退き、主に歴史学・考古学に関する事業に携わりました。

 

ダムロン親王は「ラームカムヘーン大王碑文」に書かれている内容を公定史観(ナショナル・ヒストリー)に盛り込み、スコータイ朝をタイ国史の起源としました。

また、現国王の父であるラーマ9世(在位:1946-2016)は国民から絶大な人気を集めた国王でしたが、彼は地方への行幸など、地域に差異なく国民全員に寄り添う姿を見せ、「国父・父王」の地位を一代で築きあげました。彼が自身の統治モデルの参考にしたのがスコータイ朝の王と国民の関係性であり、「ラームカムヘーン大王碑文」に記されていた、タイの「原風景」だったのです。

 

このようにして、「ラームカムヘーン大王碑文」はタイにおける、ナショナルヒストリーの根幹を支え、また後世の国王の権威を演出した、不可欠なアイテムであることは疑いようの無い事実なのです。

 

少々長くなってきたので、本題の論争については後編でお話ししようと思います。

 

それではみなさん、次回も乞うご期待。

 

・参考文献

・日向伸介.2019.「近代タイにおける考古学行政の導入過程 −第一次世界大戦と『古物調査・保存に関する布告』(1924)を契機として–」『アジア・アフリカ地域研究』(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)第18-2号.115